Introduction
フローレンス・ノール(Florence Marguerite Knoll Basset 1917年5月24日 – 2019年1月25日 101歳)は、アメリカを代表する世界的家具メーカー「Knoll」に多大な貢献をした女性インテリアデザイナーの先駆者。正統派モダニストで、アメリカにヨーロッパのモダンデザインをもたらした。20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエ (1886–1969, 83) に師事し、アイリーン・グレイ(1878–1976, 98)、シャルロット・ペリアン (1903–1999, 96) 、リリー・ライヒ (1885–1947, 62) など歴史的な女性デザイナーに比肩する実力派で、その作風はこの上なくモダンでエレガント、そしてラグジュアリー。元グッチのクリエイティヴ・ディレクター、トム・フォードなどその根強いファンは少なくない。
Gucci Autumn / Winter 1996 by Tom Ford
Photographer: Mario Testino
Model: Georgina Grenville
Sofa: Florence Knoll Lounge Sofa
貴重な学生時代
フローレンス・ノールは1917年5月24日、スイス移民の両親のもとミシガン州サギノー市に誕生した。結婚前の名前はフローレンス・シュスト、愛称 "Shu"。彼女は5歳の時に父親、12歳の時に母親が亡くなり孤児となった。
早くからフランク・ロイド・ライト (1867–1959, 91) やアルヴァ・アアルト (1898–1976, 78) などの建築に興味を示し、キングスウッド・スクールで建築を学んだ。彼女は建築家エリエル・サーリネン ( 1873–1950, 76) の養女として迎えられ、義兄エーロ・サーリネン (1910–1961, 51) と共にサーリネン家の知的な生活環境の中で建築や美術に関する討論に加わり、その時代の最も創造的な精神に触れた。
1934年、エリエルが学長を務めるクランブルック美術アカデミーの建築学科に入学。ランドスケープにあったカール・ミレス (1875–1955, 80) の彫刻に感銘を受けたという。エーロ・サーリネンは同校でチャールズ・イームズ (1907–1978, 71) とレイ・カイザー(レイ・イームズ)らとプライウッド(合板)の研究に没頭し、1940年に MoMA で開催された「Organic Design in Home Furnishings」にイームズと共に出展し優勝した。1935年にフローレンスはコロンビア大学で都市計画、ミュンヘン大学で短期間学んだ。
1938年、彼女はフィンランドを訪れた際、サーリネン家の友人で憧れのアアルトと食事をする機会に恵まれた。ロンドンから帰国したばかりのアアルトは、現地で視察した私立建築学校AAスクール(Architectural Association School of Architecture)を絶賛。彼女は同校に留学したが、間もなく第二次世界大戦がはじまり、アメリカへの帰国を余儀なくされた。
1940年、マサチューセッツ州ケンブリッジでヴァルター・グロピウス (1883–1969, 86) とマルセル・ブロイヤー (1902–1981, 79) の事務所でインターンとして働き、秋にシカゴのアーマー工科大学(現在のイリノイ工科大学)に入学。ミース・ファン・デル・ローエに師事し、1941年に建築学の学士号を取得した。この学生時代の広い交友が、後の Koll 社に大きな貢献をもたらすことになる。
ハンス・ノールとの出会い
フローレンスはアーマー工科大卒業後にニューヨークへ移り、CIA本部ビルなどを手掛けたハリソン&アブラモヴィッツ、ヘルベルト・バイヤー (Herbert Bayer, 1900–1985, 85)、レイモンド・ローウィ (Raymond Loewy, 1893–1986, 92)、ジャック・アンドレ・フイユ (Jacques André Fouilhou, 1879–1945, 65) などの事務所で働いた。この頃、ドイツからやってきたセールスマン、 ハンス・ノールと出会い意気投合した。
ハンス・ノール
Hans George Knoll, May 8, 1914 – October 08, 1955, 41
ハンス・ノールは1914年5月8日、ドイツの主要都市シュトゥットガルトに生まれた。祖父ヴィルヘルム・ノール (Wilhelm Knoll, 1839–1907) は1865年にレザー製品店をオープンし、1906年にレザー家具メーカー「Ledersitzmöbelfabrik Wilhelm Knoll」を設立。1925年に父ヴァルター・ノール (Walter C. Knoll, 1876–1971) が家具メーカー「Walter Knoll & Co. GmbH」を設立。ヴァルター・グロピウス、マルセル・ブロイヤー、ミース・ファン・デル・ローエらのモダニズム家具を製作し成功していたが、1942年、第二次世界大戦中の爆撃で工場は戦後まで閉鎖された。
兄ロベルトはアメリカへ、ハンスはイギリスへ渡り1933年から1935年までアメリカの繊維会社ジャンセン・ニッティング・ミルズ (Jantzen Knitting Mills) の英国支社に勤務した後、建築家アイヴァン・チャマイエフ (Serge Ivan Chermayeff, 1900–1996, 95) のインテリア会社で働いた。
1937年、ハンスはドイツに帰国したが政治と経済は悪化しており、父親との確執もあったことから同年ジャンセン・ニッティング・ミルズを所有する家族の援助を受け、同年23歳で米国に移住した。1939年1月にニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインの学生だったバーバラ・サウスウィック (Barbara Southwick, 1916–2007, 91) と結婚し、ピーターとマイアを授かったが夫婦関係は長く続かなかった。なお、2018年1月に他界したピーター・ノール (Peter Knoll) の遺産オークションには、製品化されなかったノールのプロトタイプなどが含まれていた。
☞ Auctions At Showplace Clears Peter Knoll Estate, Design Family’s Early Editions
1938年から1940年まで家具卸売業者ジョージ・ディトマー (George Ditmar) のセールスマンとして働き、家具業界のコネクションを確立。1940年3月にディトマーが破産するとハンスは「Hans G. Knoll Furniture Company」を設立し、1941年12月にマディソンアベニュー601番地へ移転。ここを10年近く本拠地とした。
ハンスの最初の取り組みは、父親の「プロドモチェア」(Prodomo Chair) を販売することで、この椅子は従来の重厚な布張りではなく、背もたれと座面を覆う1つのクッションが特徴で簡単に取り外して洗浄できた。1940年「ニューヨーク万国博覧会」(New York World’s Fair) で建築家アルモン・フォーダイス (Allmon Fordyce) のインスタレーション「リビングキッチン」で展示され、「快適で衛生的な新しいタイプの椅子」として称賛された。
なお、ドイツの Walter Knoll 社は1993年に同国の家具メーカーロルフ・ベンツ (Rolf Benz) に買収され、さらなる発展を遂げている。ロルフ・ベンツの親会社は、2006年に設立された中国のベッドメーカーのジェソン・ファーニチャー(Jason Furniture 顾家家居/2022年度売上高180億1000万元 = 約3,800億円)である。
Walter Knoll – Prodomo Chair
アメリカのモダンデザイン市場は小規模だったものの成長を続けており、1941年5月、ハンスはアルヴァ・アアルトの家具の製造販売しているフィンランドのアルテック社の代理店になったが、関係は長く続かなかった。同年、ハンスはスウェーデン最大のデパート「ノーディスカ・コンパニー」(Nordiska Kompaniet) のデザイン部門で働いていた25歳のデンマーク人デザイナー、イェンス・リソム (Jens Risom, 1916–2016, 100) を雇い、リソムがモダン家具をデザインしてハンスが販売する形で、ふたりは国内の建築家やデザイナーを訪ねて重要な人脈を築き市場を開拓した。顧客拡大と共に布張り家具の指定が増え、より多くのテキスタイルが必要となった。
Knoll に参画
1943年、フローレンスはハンスの誘いで彼のインテリア会社に参画し、フローレンスがデザイン部門、ハンスがビジネス部門を担当した。第二次世界大戦中の深刻な資源不足は、この新興企業に新しい材料を探し、古い材料に新しい用途を見つけることを強いたが、この実験と革新は戦後も同社の特徴となった。製品は「柔軟性・経済性・快適性」に優れ、「最小限の労働でできる製造と組み立て」に基づいて生産された。
同社はニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、パリなどに次々とショールームをオープンし顧客を獲得。1945年には生産拠点をニューヨーク市からドイツ系移民の家具職人が多いペンシルベニア州イーストグリーンビルに変更し、最初の大規模生産施設を建設した。
1946年8月1日にふたりは結婚し、2か月後に社名を「Knoll Associates, Inc.」と改めた。ノール夫妻は、エリアス・スヴェドベリ (Elias Svedberg, 1913–1987, 74)、ブルーノ・マットソン (Bruno Mathsson (1907–1988, 81) 、フリッツ・ハンセン (Fritz Hansen)、エリック・ヴェルツ (Erik Wörtz)、アストリッド・サンペ (Astrid Sampe, 1909–2002, 91)、スヴェン・マルケリウス (Sven Markelius, 1889–1972, 82)、リスベット・ヨブス (Lisbet Jobs, 1909–1961, 51) など、スウェーデンの人気デザイナーによる家具、テキスタイル、アクセサリーをニューヨークのショールームに展示した。
Knoll Planning Unit
当時、彼女は単に家具を配置するだけでなく、空間と家具の融合を図る「ノール・プランニング・ユニット」を考案していた。それは、今までモダンデザインの要素がなかったオフィスを、ミースやサーリネン、ハリー・ベルトイア ( 1915–1978, 63) などの家具と結びつける、当時としては画期的なアイデアだった。
1945年、ノール・プランニング・ユニットは、彼女の最初のクライアントで後に第41代副大統領となるネルソン・ロックフェラー (1908–1979, 70) のオフィスで実践された。友人だったイサム・ノグチ (1904–1988, 84) も参加し、一言で仕事場として括られないモダンな空間づくりに成功した。彼女は企業の幹部たちに、机は軽くて扱いやすく、彫刻が施されたマホガニーの要塞のように見えなくても目的を果たせることを教えた。
「優れたデザイン、優れたビジネス」という彼女の信念は、最終的に CBS、IBM、GM、シーグラム、ハインツなどの大企業をクライアントを持つに至った。

First National Bank Of Miami
President's Office, 1957

Look Magazine Office, 1960
世界進出と悲劇
1947年に繊維事業にも進出し「Knoll Textiles」を設立。戦争が終わると夫妻は頻繁にヨーロッパを訪れ、1950年シュトゥットガルトにオフィス、1951年パリに「Knoll international」を設立し事業を国際的に拡大した。ハンスの父の会社はウォルター・ノール社とのつながりが再構築され、イェンス・リソムが同社のために家具をデザインし、ウォルター・ノール社はノール・インターナショナルのために家具を生産した。
1955年10月8日、ハンスが出張先のキューバのマタンサスで自動車事故に遭い、同乗していた若い恋人と共に41歳で他界。同社はキューバにショールームを置き、米国大使館の改装も行っていた。フローレンスとハンスはビジネスでは関係を維持していたが離婚の準備をしていたという。このことでウォルター・ノールとノール・インターナショナルの協力関係は終了した。フローレンスは1958年、ゼネラルモーターズ社の初代副社長兼ビュイック自動車社長ハリー・ホクシー・バセット (1874–1926, 52) の息子で大手銀行の頭取ハリー・フード・バセット (Harry Hood Bassett, 1917-1991) と再婚した。
1958年には、ニューヨークの高層ビル「リーバ・ハウス」内にあった損害保険会社インシュランス本社オフィス、同年ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンが設計したシーグラム・ビルディングの「The Four Seasons Restaurant」(2019年閉店後「The Grill」)、1960年には『Look Magazine』本社オフィスのインテリアデザインを手掛けた。この頃、幾何学模様のスクリーンで有名だったエルウィン・ハウアー・スタジオとコラボレートしている。
1959年、3社 (Knoll Associates, Knoll International, Knoll Textiles) を1888年に設立された金属製家具・オフィス機器メーカーのアート・メタル・コンストラクション・カンパニー (Art Metal Construction Company) に売却し「Art Metal Knoll」となり、その後数十年にわたって所有者が変わり、2021年7月に長年のライバル企業ハーマンミラーがノールを18億ドルで買収し「MillerKnoll」となった。
1960年までにノール・インターナショナルは AEG、ヘキスト、クルップ、MAN、ダイムラー・ベンツ、ローゼンタール、フォルクスワーゲンなどのヨーロッパ企業や政府機関のインテリアデザインを手掛け、売上は年間1,500万ドルに達した。
なお、ノールで営業をしていたアーヴィング・ブルム (Irving Blum, 1930– ) は、LAでフェラス・ギャラリー (Ferus Gallery) をオープン。1962年にアンディ・ウォーホルと「キャンベルスープ缶展」を開催したが作品は人気がなく、売れたのは5、6点だけで美術雑誌では酷評された。結局ブラムは、売れた作品を買い戻して同シリーズ全32作品を1,000ドルで購入したいと申し出て、ウォーホルは月々100ドルの分割払いでこれを受け入れた。1996年、ブルムは全32作品を1,500万ドル(2021年のレートで約16億5000万円)でニューヨーク近代美術館 (MoMA) に売却した。
☞ Andy Warhol, Campbell's Soup Cans, 1962 | MoMA
オフィス・インテリアの最高傑作
1964年、フローレンスはエーロ・サーリネンが設計したCBS本社ビルのインテリアデザインを手掛けた。グラフィックデザインは巨匠ハーブ・ルバーリン (Herb Lubalin, 1918–1981, 63) が手掛けた。シンプルな空間であるがフローレンスやミースの家具とともに、フランツ・クラインやマーク・ロスコの抽象画、アレキサンドル・ノルの彫刻、そして生花が飾られた退屈と冷淡を感じさせないフランク・スタントン ( 1908–2006, 98) の社長室は「オフィス・インテリアの最高傑作」と呼ばれ、現代アメリカのオフィスのゴールドスタンダードを確立した。
Gastrotypographicalassemblage, 1966
CBSのカフェテリアに設置された「ガストロ・タイポグラフィカル・アッサンブラージュ」。長さ9メートル以上で1,650以上の文字が描かれている。ドーフスマンによる発案でデザインはハーブ・ルバーリン、レタリングはトム・カーネイズが行った。1989年のCBSビル改修まで飾られ、現在はアメリカ料理協会 (The Culinary Institute of America) に展示されている。
Concept: Lou Dorfsman
Design: Herb Lubalin & Tom Carnase
引退
フローレンスは1960年まで3社の社長を務め、1965年、CBS の仕事を最後に引退しフロリダ州でデザイン活動を続けた。2019年1月28日、アメリカにモダンデザインをもたらした偉大なモダニストは同地にて101歳の天寿を全うした。
「聡明なインテリア・プランとは、単に家具でスペースを埋めるという以上のものであり、それは生活の根本を刺激し、習慣を変えてしまうものなのです」
フローレンス・ノール・バセット
Logo
Knoll Logo by Massimo Vignelli, 1966
マッシモ・ヴィネッリ (1931年–2014, 83) によるデザインで、彼はロゴだけでなく同社のポスターや家具のデザインも手掛けた。
なお、オフィシャルサイトから抽出したカラーコードは以下の通り。
16進数 #F04E23
RGB R: 240 G: 78 B: 35
Knoll Logo by Herbert Matter, 1946
バウハウスで学んだスイス出身のグラフィックデザイナー・写真家ヘルベルト・マター (1907–1984, 73) によるロゴ。1946年から1966年まで同社のコンサルタントに就任し、ポスターやカタログをデザインした。
Books
Knoll Furniture 1938–1960
1938年から1960年までの Knoll 社のプロダクト270点以上を貴重な資料を交え解説。インテリアデザイン好き必見の一冊。
ページ数:160ページ(ハードカバー)
出版年:1999年9月
言語:英語
Knoll Identity Guidelines, 1993
文房具・印刷物・看板・車両の塗装など、Knoll のブランド・アイデンティティをまとめた一冊。デザインはチャマイエフ&ガイスマー (Chermayeff & Geismar)。
ページ数:96 ページ(ソフトカバー)
出版年:1993年
言語:英語
カール・ミレス
Carl Milles, 23 June 1875 – 19 September 1955, 80
スウェーデン生まれの彫刻家。1897年に奨学金を得てパリの美術学校で解剖学を学び、「考える人」で有名な「近代彫刻の父」オーギュスト・ロダン (Auguste Rodin, 1840–1917, 77) に師事。ストックホルムの王立美術アカデミー (1920–1931) 、アメリカ合衆国クランブルック・アカデミー・オブ・アート (193–1951) で彫刻の教授を務め、1945年にアメリカ国籍を取得した。ロックフェラー・センターの金色のオブジェやセントルイス市街の巨大な彫刻の噴水など、代表作は非常に多い。
フランツ・クライン
Franz Kline, May 23, 1910 – May 13, 1962, 51
アメリカの抽象表現主義を代表する画家の一人で、ジャクソン・ポロック (1912–1956, 44) やウィレム・デ・クーニング (Willem de Kooning, 1904–1997, 92) とともに、アクション・ペインティングのパイオニアとして知られている。1940年後半から抽象絵を描き始め、1950年にマンハッタンの「Charles Egan Gallery」で初の個展を開いた。1952年から前衛的なブラック・マウンテン・カレッジやプラット・インスティテュートなどで教えた。
アレクサンドル・ノル
Alexandre Noll, May 19, 1890 – November 30, 1970
知る人ぞ知る1940年–1950年代のフランスの彫刻家・木版画家。黒檀などを使ったオブジェや家具を製作した。 1937年、彼は無垢材から花瓶・水差し・皿を作製し国際展示会で発表し、1950年代に彫刻を始めた。1960年代にラ・ドゥムール・ギャラリーやメッシーヌ・ギャラリーで個展を開いた。
アーウィン・ハウアー
Erwin Hauer, January 18, 1926 – December 22, 2017, 91
オーストリア生まれのアメリカの彫刻家。ウィーン応用美術大学で学んだ後、イェール大学でヨゼフ・アルバース (Josef Albers, 1888–19763, 88) に師事。モジュラー構成主義の初期の提唱者として知られ、1950–1960年代に反復を利用したミニマル作品を発表した。フローレンス・ノールお気に入りのアーティストで幾何学模様のスクリーンをデザインし、Knoll のショールーム他、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・マイアミなどのスクリーンを手掛けた。ハウアーの彫刻作品は、ブルックリン美術館、シカゴ美術館、ワズワース・アセナウム、国立デザインアカデミー博物館などに収蔵されており、 1957年から1990年までイェール大学芸術学部の名誉教授を務めた。
Updates
- 2024年10月19日 加筆・デザイン変更
- 2007年02月02日 公開