1908年8月22日 – 2004年8月3日 95歳
アンリ・カルティエ=ブレッソンはフランス出身の写真家。1928年からケンブリッジ大学で美術・文学・英語を学んでいたが、1930年フランス軍に徴兵。1935年に渡米し『Harper's BAZAAR』誌で仕事を得たがモデルへの指示や接し方が分からず、うまくいかなかったという。同誌の名編集長カーメル・スノー (1887–1961, 75) は、ブレッソンの写真を雑誌に掲載した最初のアメリカ人となった。1947年に国際的報道写真集団マグナム・フォト創立に参画。1970年代に撮影活動を停止し絵画制作に取り組んだ。
1908年6月22日 – 1994年1月2日 85歳
アーサー・エヴァンスはイングランド・チェルトナム出身(ブライアン・ジョーンズ と同郷)のカメラマン。ミケランジェロ・アントニオーニ監督『Blow-Up』(『欲望』1966年)で、デヴィッド・ヘミングス (David Hemmings, 1941–2003, 62) ヴェルーシュカ (Veruschka, 1939– ) の有名なスチール写真を撮影した。なお、このシーンはファッション写真家ジョン・コーワン (John Cowan, 1929–1979) のスタジオで撮影され、衣装はジョセリン・リッカーズ (Jocelyn Rickards, 1924–2005, 80) がデザインした。
1906年8月14日 – 1999年11月18日 93歳
ホルストはドイツ出身のアメリカ人ファッション写真家。裕福な商人の家庭に生まれ、10代の頃に前衛アートに興味を持つようになった。ハンブルク美術大学で学び、1930年にパリで建築家ル・コルビュジエ (1887–1965, 77) に師事した。

パリ滞在中、米国版『VOGUE』の​​写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン男爵 (1900–1968, 68) の愛人となり、彼の助手やモデルを務めた。ふたりはイギリスへ旅行し英国版『VOGUE』の写真家セシル・ビートンと交友し、1931年にフランス版『VOGUE』で撮影を開始。翌年パリのラ・プリュム・ドールで初の個展を開催し、一躍有名になったことで社交界の著名人や王族を撮影するようになった。

1937年、ホルストはニューヨークでココ・シャネル (1883–1971, 87) と出会い、30年にわたって彼女のファッションを撮影した。1943年、陸軍に入隊しアメリカ国籍を取得。陸軍の写真家となり、写真は軍の雑誌『ベルボア・キャッスル』に掲載され、1945年には友人トルーマン大統領 (1884–1972, 88) やファーストレディを撮影するようになった。彼の仕事のやり方は入念な準備、複数の照明と小道具、モデルへの指示は簡潔で、現像、プリント、トリミング、編集は第三者に任せた。

1960年代、米国版『VOGUE』の名編集長ダイアナ・ヴリーランド (1903–1989, 86) に励まされ、社交界のライフスタイルを描写したシリーズを開始。晩年まで活動し、1938年に出会ったイギリス外交官バレンタイン・ローフォードが亡くなるまで一緒に暮らした。1999年11月18日フロリダ州パームビーチガーデンズの自宅で93歳で亡くなった。
1904年1月14日 – 1980年1月18日 76歳
セシル・ビートンはロンドン・ハムステッド出身の写真家・画家・ファッションデザイナー。木材商の裕福な家庭に生まれ、幼い頃に祖母から写真を教わった。社交界を賑わせた二人の妹ババ (1912–1973, 61) とナンシー (1909–1999, 89) のビートン姉妹と共に「ブライト・ヤング・シングス」のメンバーであった。

ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに進み歴史・美術・建築を学んだが1925年に中退。英国版『VOGUE』や『Vanity Fair』の専属カメラマンとなり、ファッション写真や社交界、王室写真のポートレートで知られるようになったが、1938年に米国版『VOGUE』でイラストの横に判読できる小さなサイズで反ユダヤ主義のフレーズを挿入し解雇された。

イギリスに帰国したビートンは女王から情報省に推薦され、ロンドン大空襲で負傷した3歳の少女アイリーン・ダン (Eileen Dunne) を撮影。この写真はアメリカの『LIFE』1940年9月23日号の表紙を飾り、窮状のイギリスはアメリカに参戦を促した。戦後、ビ​​ートンはブロードウェイで舞台装置・衣装・照明をデザインし、俳優として舞台に立ち、さらに映画『ジジ』(1958)『マイ・フェア・レディ』(1964) でアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞した。

1968年、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで初の写真展「ビートンの肖像 1928–1968」を開催。「王室」「戦争の英雄」「作家」「作曲家」「有名人」などテーマ別に展示し、8万人以上が観覧した。翌年にはニューヨーク市立博物館で「600 Faces by Beaton 1928–1969」が開催。その間、ビートンはアンディ・ウォーホルファクトリーのメンバーを撮影した。1972年、ナイトに叙せられた。

晩年は脳卒中で右半身が麻痺したことで経済面が不安になり、サザビーズと交渉し毎年の収入を確保した。1980年1月18日、自宅レディッシュハウスで誕生日を迎えた4日後に76歳で他界した。ビートンは女優グレタ・ガルボや社交界の名士など様々な男女と関係を持ち、オリンピックに出場したフェンシング選手キンモント・ホイツマが最後の恋人となった。愛聴曲はベートーヴェンの交響曲第1番だった。
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